西洋は下へ下へ。バレエ界の事実と真実。

前回、グランバットマンのコツは重くて短い脚を上げる。と書いたのでおかしな人だと思った方も多いでしょう。 

 

バレリーナが脚を上げると長く見えるのも、軽く上げてるように見えるのも事実です。

 

でも実際は脚を短く使ったから長く見え、重い脚を上げるから軽く見えるのです。

これが真実です。

(事実は目に見えて正しいから、真実をいくらうったえても事実を言う人には負けるのです)

 

目の前の事実にとらわれると解決策が見つけられなくなります。

 

「脚は長く軽い」という事実を直視すればするほど真実は見えなくなります。

「脚は長く軽い」という事実を直視すればするほど「脚は長く軽い」という事実しか見えなくなってしまいます。


何故、事実ばかり見てしまうのか?


それは一点を凝視してしまうから。


何故、一点を凝視してしまうのか?


それは、床が踏めてないからです。


踏める人は常に遠くの景色を俯瞰(ふかん)で見るように、全体を見ています。

頭の意識は一点には集中していません。

だから思考も全体を見れます。

感じている空間も広い。

一点集中しても忘れっぽいためすぐ忘れます。

脚で踏んだエネルギーが常に脳天まで突き抜けてるためです。


踏めない人は常に視線が固定され、一点を凝視してしまいます。

全体ではなく部分部分にしか目がいきません。

視野が狭いから、その一点しか考えられません

視野だけでなく、自然と思考も悪い意味で一点集中型になっていきます。


だから「“つま先”が伸びてない」「“つま先”を伸ばそう」になってしまいます。

つま先を見たら、つま先しか見えなくなる。

つま先にしか意識が行かない。


つま先に集中している時は、体全体に対しては意識が向いてません。

感じている空間も狭い。

踏んだエネルギーも脳天まで突き抜けてないで、途中で止まってます。

自然と鈍感な体になっていきます。


これでは表面的なことしか見えてないから、つま先が伸びない本当の原因に気づけません。

鈍感な人は自分の体で何が正解か、何が不正解か?がなかなかわかりません。

だから先生に教わったことを盲目的に繰り返すことしかできない。


教わったことをやってみて、良くなった部分もあるけど、悪くなった部分もある。

その場合は何故悪くなったのか理由を考えて解決してから次へ進まないと駄目です。

それをせず次から次へと正解と思われることを足し続けると変になります。


一方、踏めてる人は一点に意識が集中してないので、常に自分の体に意識が向いてます。

自然と敏感な体になっていきます。

敏感になるので小さな体の変化に気づきます。

 

古いバレエの既成概念を捨て、視野を広くして新しい視点で見直せばそこに「バレエの真実」が見えてきます。

 



これと似たような話の代表的なものに「西洋(バレエ)の人達の重心は上へ上へ」というのがあります。

 

上へ上へ伸びてるように見えるのは事実です。

 

ですが以前紹介したコマの動きからもわかるように、正しくは「日本人は重心=支点が高いから下へ、西洋の人達は重心=支点が低いから上へ」が真実です。

 

「下に落ちるから上に上がる」のが西洋です。

 

ここを勘違いするとバレエとか西洋のもの全般がまったくわからなくなります。

何十年やっても正解にたどり着きません。

上へ上へと頑張って「上に上げた結果、下に踏める体」は西洋とは似て非なるものです。

「上に上げる」を先にやると、どうしても固くなります。

 

その「本物そっくりの似たもの」が「本物」だとは思い込まないでください。

 

これはとても重要なことです。

一生バレエっぽい、から抜け出せません。



 

土踏まずの使い方も同じです。

 

踏めてる人には「土踏まずが上がる感覚がある」のは事実です。

 

これは意識的に頑張って土踏まずを上げて床をつかむわけではありません。

これをやると足裏から足首あたりが固くなって怪我をしやすくなり、踊りも固くなってしまいます。

 

真実は、脚が重力に引っ張られて土踏まずが下がる(潰れる)から、土踏まずが上がる感覚があるのです。

 

踏めてる人は土踏まずが上がる感覚がありますが、土踏まずを上げたからといって踏める人にはなれません。

 

足裏は強化するものではなく、勝手に強化されるものなのです。

床は踏むものではなく、重力に踏まされるものです。

 



音楽と踊りの関係で言えば「バレエダンサーの踊りは音に合っている」のは事実です。

だからといって音の一つ一つやカウントにぴったり合ってると変です。


これも先ほど説明した、一点を凝視してしまう踏めてない人の特徴です。

楽曲全体の構造、骨格を見ることは出来ず、一音一音に集中してしまいます。


こうして「音に完璧に合っているのに、音楽に合ってない、音楽の波に乗ってない」という現象がおきます。

音に合っている人にその話をしても「音に合っているでしょ」と言われ話が通じないのですが。

 

続く。